朔夜の夏祭 5 かごめの手には、出がけに祖父から言付かった土産用の「たい焼」の包みがある。さきほど、立ち寄った店屋で買ったばかりのもので、包みまだ十分に熱い。 店屋への人の行列が増えて来た頃合いを見計らって、かごめが前もって買いに走ったのだ。並ぶ行列が多ければ多くなるほど、待つ時間が長くなるのは分かりきっていたので、そうならない為に先手を打ったというわけだ。 (だって、あんまり待つの長いのも足疲れちゃうしね。) ほんのり甘くて香ばしい匂いが食欲をそそるのだが、とりあえず今は我慢する。 たまに着る浴衣は嬉しいけれど、いかんせん胴をぎゅうと締め付けているので、ちょっと食べるとすぐに苦しくなってしまうのだ。 慣れぬ格好なのも手伝って、この姿でいるのはせいぜい数時間が限度。 店屋を覗いて回るのも楽しんだし、お土産は買えたし、お腹も満たせたし。(草太と分かれた後、かごめは犬夜叉とたこ焼きやかき氷など、二人で分けて食べたりしたのだ。彼は不思議そうな顔をしていたけれど特に厭な顔もせず文句も言わず、ひょいひょいと摘んで口に放りこんでいたので、まあ美味しかったのだろう。流石にかき氷は一口しただけでその甘さに閉口したのか、もう要らねえ、と直ぐさまかごめの手に返されたのだが。) あとは、そう。 最後にお目当てのアレだけ手に入れたら、そろそろ帰ろうか。 かごめがそう考えていると、探し求めていたアレのある店が目前に飛び込んで来た。 「あ、あった!」 「…あ?」 「林檎飴よ!」 「……りんごあめ?…」 聞き慣れぬその言葉に犬夜叉が、なんだそれ、という感情そのままの表情でいると、隣を歩く少女は嬉しくて堪らないといった様でこちらを振り向いた。 「ごめん、ちょっとだけ待ってて。すぐ買って来るから」 「おいっ!」 こちらの返事も待たずに、かごめは自分のお目当ての店にからころと下駄を高らかに鳴らし小走りに駆けた。 ずらりと並んだ店の中、赤い果物らしいものに棒を突き刺したものが並べられた店先の前で、彼女はぴたりと立ち止まる。そして、店の主人と二言三言のやり取りの後、銭を手渡し、店頭に飾ってあった赤い果物を一つ受け取って微笑んだ。 その零れそうな程の微笑を見て、少年の心臓がどくんと騒ぎだす。 誰にも見せたくない、自分だけがずっと見ていたいような幸せそうなその表情に、犬夜叉の心中はざわめく。 「…かご」 「日暮!」 少年の声が、誰かの声と重なる。 それぞれの声の呼び名こそは異なれど、この時、意味するの奇しくも同じ人間だった。 つい今しがた受け取った林檎飴を手にしつつ、背後から掛けられた聞き覚えのある声に、かごめはまさかとは思いつつ、後ろをそろりと振り返る。すると、人込みを掻き分けながら、にこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべた少年が歩みよって来る。 「やっぱり日暮だ!浴衣姿だったからひょっとしたら違うかもって思ったんだけど、なんとなくそうじゃないかな〜て思ったんだ。人違いでなくて良かったよ」 「…北条くん」 「ひさしぶり、元気だった?」 「…ええ、おかげさまで」 へらと、乾いた笑みを返す少女に、北条君は少しも気付いた様子もなく、ただただかごめに会えたことを喜んでいるようだ。 しかし、犬夜叉はいきなり登場したかごめの知り合い――しかも同世代の男――に、俄(にわか)に表情が険しくなる。 爽やかな笑みを浮かべる北条少年の背後、じろり、と犬夜叉が彼を睨んでるのが、かごめの視界に入った。 (お、怒ってるよ〜。(汗)) そんな少女の思いを知ってか知らずか、北条君の弾丸ト―クは止まらない。 「そっか、良かった! 最近、病気がちでなかなか学校で姿を見ないからちょっと心配してたんだ。またお見舞いに行こうかと思ってたんだよ。でも、今の浴衣姿の日暮見たら、元気そうで安心した。うん、凄くよく似合ってるよ! その浴衣」 「…あ、ありがとう…」 息吐く間もなく会話のマシンガンと化した北条君に、かごめは頭を抱えたくなる。 なんとかこの会話から抜け出さなくては。 犬夜叉の逆鱗に触れる前に。 なにか適当な事を言って誤魔かして、早くこの場――北条君の前――から去ってしまおう。 …でないと、北条君の背後に立つ彼が、数秒後には怒髪天をつくような勢いで怒りを露(あらわ)にしそうな気がする。 それは勘弁して欲しい。 怒りを露にした彼は、この人込みの中でさぞ目立つだろう。それでなくとも、彼の殺気立った気配は結構怖いというのに。せっかく楽しみに来ただけなのに、変に目立ちたくはない。ごくごく、普通に楽しみたいだけなんだから。 かごめは、ぐるぐると忙しく考え、とりあえず現状を打破するべく口を開こうとした。が、 「………おい」 怒りを押し殺したような少年の低い声が、祭の喧噪の中、やけに耳に響いた。少女の目の前で、立て板に水とばかりに喋り続けていた北条君は、ここでやっと自分の背後に立つ少年の存在に気付く。 どこか怒りを含んだような低い声音で、おい、と言ったのはこの少年だろうか?と見当をつけ、北条君は犬夜叉をしげしげと見やる。 彼女や自分より頭一つくらいは高い身長の、今時ちょっと珍しい真っ黒な黒髪の少年。 外見はかごめと同じ浴衣姿だが、なんとはなしに自分や彼女よりもほんの少し年上のような印象に見える。 …が、それより何より強烈な違和感を覚えるのは、その鋭い眼差し。じろり、と見るものを射抜く視線は、到底穏やかな空気とは無縁のもの。彼はその眼光を崩す事なく、北条と少女の間に割って入る。 犬夜叉は、目の前の少年をまるで空気のごとく無視し、少女の腕をぐいと掴む。 「行くぞ」 とひとこと言放(いいはな)つと、半ば彼女を引きずるような強引な形で歩き出した。 「ちょっ、犬夜叉! …ごめん、北条君、あたしちょっと用があるから、また学校でね?」 人の波に自分の姿が消えるその一瞬前に、かごめは心底すまなさそうに、そして口早に北条少年にそう伝えるのと、彼女の姿が北条少年の視界から消えたのはほんの一瞬の出来事。 「へ?」 突然の事態に北条少年が呆然としたその一瞬は、あっという間。 気が付けば、自分の好きな少女は見知らぬ少年と連れ立って、見えなくなってしまった。 ほんの一瞬、親密そうな二人を目の当たりにしたものの、それが何を意味するのか、微妙に分かっていない若人が一人。ぽつん、と取り残されたような哀愁を漂わせて、彼は今の心境をぽつりと呟いた。 「……誰だったんだろう、さっきの奴。」 どこか鈍い男、北条少年。 突然の少女との再会の終幕を悲しみながらも、 (……やけに親しそうな感じだったけど。親戚の子かなにかかな…?) と自分なりに納得し、次回に会う時にはどんな健康グッズを彼女に贈ろうかと考える事にした。 からころ、からころ。 「ちょっ…犬夜叉ってば」 「………」 「…も…待っ…てよ…」 ぐいぐいと人込みを掻き分け、足早に進む彼の歩調に、下駄で追い付くのはとても大変な事で。 それゆえ、かごめの息はあがり、切れ切れの懇願の言葉が口の端から零れ落ちる。それでも、彼は止まらない。 必死に追い付こうと動かしていた少女の手足は悲鳴をあげ、もはや限界だと訴えている。 ぶつり。 嫌な音がした。 そう感じた時には少女の下駄の鼻緒は無惨に千切れ、その拍子にかごめの身体は平衡感覚を崩し、地面につんのめって転びかける。犬夜叉は、咄嗟にかごめに怪我をさせぬよう身体の位置を入れ替えた。結果、彼は彼女の下敷きになる。 「…痛っ」 「ごめん!大丈夫?」 「……」 彼は無言で少女を見遣る。 ―と、そこには自分の下駄の鼻緒が切れたことも構わず、こちらを心配そうに見詰める真摯な眼差し。先程の激しい怒りは急速に収束し、かわりに沸き上がったのは、すまないという気持ちだった。 「…わりい」 「え?」 「それ、切れてる」 彼の視線の先に無惨に切れた鼻緒が見える。 「あ、ほんとだ。もう、あんたが力任せに引っ張って歩くから!」 先程の犬夜叉の強引な行動にちょっと頭に来ていたので、少女は少しばかり避難を込めてた調子で言ってやる。 そう言われた途端、すっと彼の目の色が翳る。まるで、触れて欲しくない所に触れられたかのような痛そうな表情。それに気付き、かごめは急に自分が悪い事を言ってしまったような感覚に陥る。別にそこまで傷つくとは思っていなかったから。 なので、予想外の彼の表情にいつもの彼女らしく、殊更(ことさら)明るい口調でフォローを入れる。 「でも、大丈夫! 怪我しなかったみたいだし。あたしってば結構頑丈なのよね」 ぺろりと舌を出して、なんともなかったよ、と彼にアピ―ルする。 巧くいったかな?と胸中で呟いた矢先、 「……乗れよ」 と短い応えが返る。 彼は背を向けると、すっと彼女の前に屈んだ。かごめが一寸躊躇していると、 「それじゃあ、歩けねえだろ。いいから乗れ」 「……うん」 言われるがまま彼の言葉に従い、かごめは彼の背に乗る。 いつも乗りなれた彼の広い背中。 いつの間にか、あたしの居場所にもなっている場所。 自分の腕を彼の首もとに回すと、彼はひょいと自分を負ぶって歩き出した。 揺れる二つの影。 戦国と異なり現代の夜では夜空に煌めく星明かり以外にも、明かりが灯る。 それは道々にある人工の灯。 祭の喧噪を離れた静かな夜道、微かな星明かりと、街灯に足下を照らされた中、白地に桜の模様が咲いた可憐な浴衣を着た少女を、藍の生地に涼しげな縦縞が入った浴衣を着た少年が背負いながら歩く――。 「…犬夜叉」 「あ?」 「…ごめんね」 「別に、おまえのせいじゃねえだろ」 「…うん。けど…なんとなく」 「なんとなく謝んな。」 「でも…犬夜叉。さっき怒ってたでしょ?」 「……」 「…だから、ごめんね」 自分が憤っていた理由は、そもそも彼女が悪いわけではない。 そんなことは百も承知してるのに、彼女に当たってしまう自分が情けなかった。 けれど、見も知らぬ同年代の男が、彼女にさも親しげに話しかけているのを目にした時、なんとも名状しがたい感情が沸き起こった。 はっきり言って面白くない。 不愉快。 気に障る。 そういった感情だ。 いつものあちらの世界でなら、妖狼族の若者がかごめにちょっかいを出す時に自分が感じるのと同じような想いを、つい今し方会ったばかりの男(かごめの知り合いらしい)に抱いた。 少年の人一倍強い独占欲が、彼の奥底にある嫉妬心を激しく掻き立てる。 彼女の笑顔も、優しい眼差しも、意志の強さを感じさせる凛とした声音も、滑らかな漆黒の髪も、大きく愛らしい瞳も、薄桃の唇も、彼女を構成するものすべて、他の誰にも向けて欲しくは無い。 自分以外には誰も――。 だから、彼女をあの場から攫った。 あれ以上、彼女の知り合いらしい男と親しげに話す彼女を見たくなかったから。 街の喧噪とはほど遠い、濃緑の木々に囲まれた日暮神社の見なれた石階段を少年は登りきる。 いつもは周り木々の緑に囲まれた其の場所は、今は月明りが無いため仄暗く、まるで夜の水底のように透明で蒼い世界。 此処まで黙したままの少年の様子に、彼の背に乗った少女は回した腕にきゅっと力を込める。彼の肩先に自身の頬を寄せ、その黒髪に顔を埋める。 「かごめ?」 「犬夜叉、ちょっと降ろして?」 日暮家の玄関まではまだ距離がある。 それを不思議に思いつつも彼は少女の言葉に従った。 背から降ろされ、片方は素足のまま神社の石畳の上に立ち、じっと見上げてくるのは大きな漆黒の瞳。 まるで吸い込まれそうに綺麗な大粒の黒曜石のよう。 「ねえ、もしかしてまだ怒ってる?」 「…なにが」 「あのね、北条君は只の友達だからね」 「………かごめに話しかけてきた男(やつ)か?」 「うん」 「……そうは見えなかったけどな」 犬夜叉の口からは、言うつもりではなかった言葉が零れる。 かごめの目がきょとんとなる。 少女にその気はなくても、あいつの目はそうは言ってなかった。 鋼牙のようにあからさまではなかったが、あの目はかごめへの好意を隠さず露(あらわ)にしていた。 その目に、どうしようもなく犬夜叉は苛立ちを覚えていた。 「違うってば」 少女がその少年を何とも思っていないことなど、態度で分かる。 けれど――不安なんだ、どうしようもなく。 いつ彼女が自分の傍からいなくなるんじゃないか、と。 いつ愛想をつかされて置いて行かれるんじゃないか、と。 そんな風に少女を失うことに酷く脅える臆病な自分がいるのを、もう随分前から少年は知っていた。 そんな感情を見透かされるのが厭で、ふいと視線を逸らした彼の髪の一房を、かごめはぐいと引っ張る。 そして、ひたりと目線を合わせてきた。 「ねえ、犬夜叉。こっちを見て。」 「……」 「あたしが傍にいたいと思うのは、犬夜叉だけだよ」 「…!」 その言葉に、どくんと少年の心の臓が跳ねる。 言葉を失って立ち尽くす彼の背中に、かごめは腕を回す。 幅広の浴衣の布をぎゅっと握りしめて、頬を彼の胸板にすり寄せた。 「ちょっとはあたしの気持ちを信じなさいよ、…馬鹿」 どこかからかい気味に囁かれた彼女の言葉に、暫し目をぱちくりさせながら、犬夜叉は我知らず苦笑する。 かごめには全てお見通しだったというわけか。 彼女の知り合いの男の登場に途端に不機嫌になった自身の事も。 そして、己の不安な心や苛立つ心も。 それらをを宥める唯一の言葉さえも。 まったくかごめにはかなわない。 「…かごめ」 普段の彼からは想像できないような酷く柔らかい声音。 吃驚して顔をあげると、少し目を細めて優しい表情をした彼が見えた。そして目を伏せた彼の顔が近付く。 (えええ!!!?) 内心で酷く動揺しながらも、かごめの腰には彼の両腕がいつの間にか廻っていて抜け出せない。咄嗟に唇に触れる何かを余感して、反射的にきゅっと目を瞑ったのだが、予想した感触は降りては来なかった。 その代わりに、こつん、と額に軽く衝撃がはしる。 目を開けると、彼の額が自分の額に寄せられていた。 小さい頃、熱が出た時にママに熱を計って貰ったように、互いのおでこを重ねてる。いうなれば、そんな状態。 密着度が高くて、なんだか口付けされるよりも恥ずかしくて、少女は頬はおろか耳まで真っ赤になる。そんなかごめの様子を、犬夜叉は黒い瞳で愛おしそうに見つめると、ゆっくりと自身の唇を彼女の唇に寄せて塞いだ。 最初は軽く触れるだけだったが、角度を変えて数度重ねた後、短いけれど深い口付けを落とす。 「…っん…」 彼女の甘い喘ぎが一つ零れる。 もっと触れたくて、感じたくて、その声を聞きたくて、犬夜叉はその後も口付けを止めなかった。彼女の口元の微かに開いた隙間から舌を差し入れ、歯列を押し開いて彼女の柔かなそれと絡ませる。熱い吐息と、互いの唾液が混ざりあって、濡れた水音が口の合間から零れた。 暫くして息苦しさからなのか、彼の背を彼女が手がとんとんと叩く。 渋々といった呈で彼女の唇を解放すると、 「もう…」 彼女は顔を真っ赤にして、目を潤ませた彼をじろりと睨んだ。 そんな可愛い様子に彼は頬を緩ませると、かごめの耳元で小さく囁いた。 「…信じるから、かごめの言葉」 ほかの何も信じられなくても、かごめの言葉だけは信じられるから。
自分が欲しいと思う言葉を与えてくれる少女。 あとがき |