朔夜の夏祭 1  



「ただいまーっ」
玄関の扉をからりと開きながら、かごめは奥の間にむかって声をあげた。すると、ぱたぱたと軽快なスリッパの音をたてて、家の主が姿を表す。
「あら、おかえりなさい」
自分の娘に、迎えの言葉をかけたその女性は、その背後に立ち尽くした少年にも気付いて、ふうわりと笑みを浮かべた。
「犬夜叉くんもいらっしゃい」
かごめの母の、柔らかい口調とその笑顔に少年は酷く弱い。
どこか亡き母を思い起させる、その暖かな雰囲気や眼差しは、嘗て自分を見守ってくれたあの人に通じるものがあるから。生来、あまり口が巧いほうでもなく、その言葉になんと返したものか躊躇していると…。
「ママ、今夜の夕ご飯は? 私も手伝うよ」
「そう、ありがとう。それじゃあ、犬夜叉くんは草太の相手をしててくれるかしら?」
少年の返事も待たぬまま、ひさかたぶりの親子の会話がなされる。かごめにとっては日常のーこちらの世界でのーやり取り。おだやかな空気が流れるこの目前の光景に、なんとなしに気がひけた。
居心地が悪いということではない。
どちらかというと、かごめの家族は、さすが彼女を血を分けることだけはあって、誰も彼もが鷹揚で頓着せず、異形の自分を受け入れてくれる。希有な人間ばかりだ。
ありのまま、素のままでいられる貴重な人間には違いないのだが、今この時、この場所に居る意味を考えて、なんだか気が沈む。
かごめや仲間の配慮は分かる。
自分だって、向こうにいるよりこちらの方が安全なのだと、理屈では分かるし、それも尤もだと思う。ただ、こうして身を守る為とはいえ、こそこそと隠れるようなのが、どうにも厭なのだ。
避難しているのだといえば聞こえはいいけれど。
(要は逃げて隠れてるだけじゃねえか。)
危険は承知。
…なれど、やはり井戸の向こうへ戻ろうか、と後ろにあとずさりかけた時、少女の小さな手が、きゅっと少年の手首を掴んだ。まるで、彼の想いを見越したかのようにーー。
「もう、この期におよんで逃げようとしない!」
きっと見上げる漆黒の瞳。
そのまっすぐな視線に思わず、どくん、と心の臓が跳ねる。それを悟られまいと、少年はふいと視線と逸らした。
「別に…逃げちゃいねえよ」
…どうだか、と内心でかごめは零した後、
「とにかく、向こうよりこっちの方が安全なんだから。ね?」
上目遣いに、納得させるように念を押す。弥勒達には、やれ薬の補給だ、包帯の補給だとか事訳(ことわけ)して現代へと帰って来たが、真の理由は、やはりこれだったのか、と少年は内心ひとりごちる。
そうだ、彼女の言う通り今宵は朔の日。
日が沈めば、この身に溢れる妖力は血の中に潜み、ただの人間に戻る。今でこそ、仲間の前では月に一度変化する人間の姿を晒すようになったが。以前では、到底そんな事は考えられなかった。
怖くて、恐ろしくて。
いつ自分を付け狙う妖怪どもや人間どもに、この身を見つけられ、妖力のない非力な身を裂かれるかと、そう考えるだけで眠ることなど出来なかった。一睡も微睡むこともなく、ただ暗いばかりの闇夜を睨んで、早く夜が明けるのを、ただひたすらに待ち焦がれた。
はやく、はやく、この暗闇を晴らしてくれ、と。
その想いだけを胸に抱いて、息を殺して夜明けを待ったんだ。ふと、思考が深淵の闇に落ちかけたその時、

ぺちっ。

軽く頬を、両手ではたかれた。
それは、痛くもなんともない程度の加減された力。
が、正気を取り戻すには十分に効果があったようだ。少年が目をぱちくりさせると、目の前には見知った少女の顔。けれど、少し怒ったような意志の強い瞳がじっと少年に注がれる。
「こら、人の話聞いてる?」
「…え…?」
「だから、ご飯できるまで草太と居間で待っててね、て言ったでしょう?」
「…わかったよ、だから…」
「だから?」
「この手、…離せよ」
頬に触れたままの両手の平は、少女の体熱を伝えてくる。
それだけでも、鼓動を早めるには十分なのに。
よりによってこの体制。互いの身長差を埋めるように、少女は少年の顔を覗き込むために下から彼を見上げる状態。その顔は少年のすぐ真近だ。彼の理性の限界を試すには、良い場所。…もとい、悪い場所と言えるだろう。
「…え?」
そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、おそらくは無意識の行動のかごめは、少々頭に疑問符を浮かべつつも、彼から体を離した。
そんな二人の様子を、傍で見ていたかごめの母は、あまり二人の微笑ましさっぷりにくすくすと笑い出す。
「…ママ?」
いきなり笑い出した母に、娘は疑問の声をなげる。
「ああ、ごめんなさい。あんまり二人とも可愛いもんだから、つい。」
くすくすと口元に手をあてて、楽しそうに笑うかごめ母の爆弾発言に、かごめと犬夜叉は暫し絶句。特に犬夜叉にいたっては、酸欠の魚のように口をぱくぱくとさせていた。そんな二人の様子に気付いているのかのかいないのか、――かごめ母もある意味天然なので、おそらくは無意識の発言だろう――若い二人を一瞥し、
「とにかく、犬夜叉くんは家(うち)にあがってちょうだい! かごめはママを手伝って! それでみんなで一緒にご飯を食べましょう! いいわね?」
最後に“みんなで”のところに力を込めて言うと、彼女はまたもや、ぱたぱたとスリッパを軽快に鳴らし、奥へと消えていった。
後に残されたのは、先の言葉に、石のように固まってしまった若人(わこうど)が二人。





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