水ノ音    ミズノネ





日が翳る。
その事に言い知れぬ苛立ちを感じながら、半妖は空を見上げる。夜の帳が降りきるまで残された時間は、もうあと数刻ほどがせいぜいだろう。幾年月日が過ぎようとも、何時になっても、慣れぬ感覚、嫌な感覚。

…ああ、もうすぐ朔の宵か…


雨の匂いがする、と不機嫌げに呟いた少年の言葉どおり、夕刻前より静かに降りはじめた雨は、最初の方こそ霧雨のようにさらさらと降つる程度だったのに、とある邑(むら)に差し掛かった所で、急に雨足が強まった。薄暗かった空は見るまに曇天と化し、ざあざあと強風が木々の梢を揺らしては、ざわめき立てる。新緑の一葉が疾風(かぜ)に儚く千切れ、あっと思う間もなく吹き飛ばされた。

「…これは、宿を請うたほうが良いようですな。」

唐突な雨足の洗礼を受け、誰も彼もがびしょ濡れ状態の中。いささかげんなりとした口調で、そう提案する法師の言に、誰も否やとは言わなかった。
日は完全に山の端に隠れ、歩きやすいとはお世辞にも言えぬ、ぬかるんだ道を、一行は急ぐ。一つには当然ながら、一刻も早く風雨に曝されない場所へ避難したかったというのも理由なのだが、もう一つは仲間の一人を慮(おもんばか)って、なるべく人目―というか妖怪の目というべきか?―に晒されることがないようにしたかった、という点だ。
常ならば、そこいらの雑魚妖怪など、露ほども足元に寄せ付けず、難なく蹴散らす甚大な妖力の持ち主である半妖の少年の、唯一にして最大の弱点。父からは妖怪の血を、母からは人間の血を受け継ぐがゆえ、半妖に生まれたならば、避けては通れぬ道。
月に一度、妖力を失い只の人間へと戻る瞬間(とき)。
それが今宵。
月の出ない新月の、朔の宵。


雨に打たれ、各自の衣の色は濃淡を更に増し、重くなった袖口からは水滴が、ぽたた、と滴り落ちる。法師は邑のうちで一番裕福そうな家に狙いを定めた。
仲間にとってはいつもの事なのだが、彼のいつもの常套手段 「このお屋敷には暗雲が……」、という口上(どうかすると聞き様によっては非常に如何わしく聞こえなくもない)が始まる。
有髪の法師、退治屋の娘、水干姿の少年、異国の衣を纏った少女、可愛らしい男(おのこ)の童、その腕に抱かれた二股の子猫…とかなり異彩を放つその組み合わせに、最初はけしていい顔を見せなかった屋敷の主も、法師の巧みな話術と幾度かの交渉の末、暗雲の根源を祓い清めるという条件で、一夜の宿を許した。
弥勒の見立てとおり、裕福な屋敷というのは、どうも当たっていたらしく、空き部屋も幾つかあるからという事で、屋敷の母屋からは離れてはいるものの、2間ほど借り受けることが出来た。早速、濡れた衣服をあらためて、軽い夕餉を摂った後、法師はすっくと立ち上がると、一寸お役目を果たしてきますよ、と仲間に告げ、屋敷の主の元へと向かった。一夜の宿の代償と引き換えの、清めの祓いを執り行う為、法師いわく有り難い御札やらを懐に忍ばせ、しゃらんと錫状を鳴らし部屋を後にするのを見届けながら、かごめが一言。
「めずらしく仕事熱心(←嘘だけど)よね、弥勒様」
少し不思議そうに呟く少女の言葉に、傍に控えていた妖狐の童が答える。
「おら、その訳を知っとるぞ。」
「…え?なにを知ってるの、七宝ちゃん」
「さきほどな、夕餉を持ってきてくれた娘御と弥勒が話しをしとった。なんでも、この屋敷には主の自慢の娘がおるとな。」
ぴくっ。
珊瑚の肩が揺れた。
「さ、珊瑚ちゃん?」
かごめの上ずったような、動揺したような声音に気づいてるのか、いや、恐らくは気づかずに七宝は腕を組み訳知り顔で言葉を続ける。
「なんでも、戦に行ってしまった男の帰りをずっと待ちつづけて、気が臥せってるとか。見ているだけでお可哀相で、なんとかしてあげられませぬか、とか話しておったな。」
すっく。
いきなり立ち上がった珊瑚に、ひっと喉の奥で悲鳴をあげかけたかごめに、彼女は微かに引きつったような笑みを浮かべると、一応何もないとは思うけど 念の為に私も行くよ、と弥勒の後に続いて部屋から出て行ってしまった。
後に残るは、何処からどう見てもすっかり人間の姿の少年と、突然出て行ってしまった娘にぽかんとしている七宝と、主人の後を静かに見送った猫又の雲母と、少し気まずさを顔に残したままの少女、かごめであった。
「なんじゃ、わしの話はまだ終わっとらんのに、珊瑚はせっかちじゃの。」
ぷくんと小さな頬を膨らまし、ご機嫌を損ねてしまった七宝に、かごめはくすりと笑みを零す。
「まあまあ、…それより、七宝ちゃんそろそろ眠いんじゃないの?」
「そんなことはないぞ」
「…そう? お布団ふかふかしてあったかそうだったけど、もうちょっと起きてる?」
「うっ…」
暫し考える七宝。
そういえば、さっきの豪雨のせいで急ぎ足で邑まで駆けて、身体は言われてみれば重いような気がする。それに加えて夕餉も終え、腹は満たされ、いい気持だ。更に今宵はあたたかな布団で眠る事が出来る。
野宿にも慣れてきてはいるものの、まだまだ童の領域を脱しない七宝にとって、気持ち良く眠れる場所は嬉しいことだった。
そこに二股の猫妖怪(雲母)が、みー、と一声鳴くと、可愛らしい足をとことこと動かし、奥の間に消えていった。
「……どうする?」
「おらも寝る」
「うん、じゃあ。おやすみなさい」
ぱたんと、隣の部屋の襖が閉じられた。


春雨とは言え、まだまだ夜は冷える。
しんと静まりかえった部屋に二人きりで、ちろちろと蝋燭の炎が揺れる光は、とても明るいとは言い難いけれど。でも、その明かりに照らされる彼は、綺麗だった。男の人に、綺麗、という形容は相応しくはないかもしれない。でも憂いを帯びた眼差しも、常とは違う漆黒の髪も瞳も自分には好ましい。なんだか、近しくなれた感じがするから。
別段、いつもの姿が嫌だと言うわけでは無論ない。絹糸のような光沢を思わせる銀糸の髪も、吸い込まれるような金色の瞳も、何処か愛嬌のある犬耳でさえも、他の人がどう思うかは知れないが、自分は好きだ。
半妖の姿も、人間の姿も、どちらであっても彼は彼だから。
――犬夜叉だから。

「ねえ、そっちにいっていい?」
「……勝手にしろ」

他に誰も居ないから、どきどきする。
でも、せっかくの時間だもの。少年にムードを求めても所詮無駄なのは分かってるから、せめて傍にいるくらいは許してよね。すとん、と彼の横に座り同じ景色を眺める。

さらさらと、降る雨音。

静かだな、と思う。
時折、ちろちろと蝋の燃える音が爆ぜるくらいで、それ以外は雨音しかしない。
ちょっとだけ、彼に身体を寄り添ってみる。
びくっと微かに身じろぎをしたものの、少年の逃げる気配はない。

「…止まないね、雨」

僅かに開け放した隙間から見える、降りしきる雨を、睨むようにして見る犬夜叉にかごめは声をかける。少女の言葉に、そうだな、と短く応じる少年の声音に、何処か不機嫌な気配が感じられた。かごめは首を傾げる。
「ねえ、もしかして、あんたさ。雨は嫌いなの?」
「…だったら悪いかよ」
むすっと返事を寄越すその態度。少女はうーんと、少し考えた後、
「別に悪くはないんだけど」
「けど、なんだよ」
「でも、雨もたまにはいいと思わない?」
少年は、けっと悪態をつき、どこが、と問う。
「なんていうか…こうしてすこしはゆっくり休めたり出来るでしょ。雨は嫌いっていう人多いんだけど、私は結構好きだな。それにね、雨の降った後って、空気が綺麗になってるの。降る前とちがって、空気が清んでるっていうか。犬夜叉はそんな事感じたことない?」
「………ない」
「…そっか……」
もしかして、触れて欲しく無いこと言っちゃったのかな…私。
会話が途絶えて、ただ二人寄り添って雨を見る。やがて、沈黙を守る少女に、ぽつと犬夜叉が言う。
「…あんま…いい思い出ないんだ。」
「…そうなんだ」
見かけと違い、彼は長き時を生きている。封じられていた期間は例外にしても、いったい何年、下手ををすれば何十年もの間、たった一人で誰にも頼らず己が爪と牙だけを頼りに生きてきたんだろう。
その心に巣くった空虚さは、未だ埋められていないのだろうか。仲間と共に歩む今も、昔の記憶に苛まれることが、やはり時折あるのも知っている。
そう、彼は自分とは違う生を生きている。どれだけ分かち合いたい、分かり合いたいとは想っても…。

「ねえ、ちょっとだけ、外に出てみない?」
「…は?」
唐突な少女の言葉に、少年はぽかんと口をあける。
「ほらほら、もう小雨になってきたじゃない。ねっ」
「あのなあ…、こんな真っ暗な中で外なんか出たってなんも見えねーぞ。」
軽く少女を睨むが、当の少女には一向効き目などない。
「あそこ、藤棚になってる、雨に濡れちゃったけどきっと綺麗だよ、見に行こ?」
「お前な…」
少女の指差した方には確かに藤棚があった。こんな時代にしては手入れの行き届いた、見事な出来栄えといって差し支えないほどのもの。だが、今はそんなものを悠長に眺めてる場合でもないだろう、と些かげんなりした口調で、人の話を聞けよ、と続けそうになった時。
「あたしと一緒は嫌なの?」
上目遣いでそう告げられた少年に、否、と言えるはずもなかった。
人間、惚れたほうが弱い。
それが、時を越えても変わらぬこの世の理(ことわり)。


母屋とは別立ての離れの為、縁側のほうに回ると、紫の藤の花が視界に広がった。靴を履き、すぐ傍まで寄るとかごめは藤に手を伸ばす。途端に水滴が手首をつつっと伝い、衣を少し濡らしたようだが、冷たいっ、とはしゃぐ少女に、我知らず少年は表情を和らげる。
まだぱらぱらと小雨がぱらついているが、曇天はもう空には見えず、かわりに星の瞬きがちらほらと見える。
半妖の時ほど夜目は利かぬものの、それでも少女の表情は良く見えた。くるくると、見る度に変わる表情。時には怒り、時には涙を零し、いつも見ても一向に飽きない。その笑みに、どれだけ自分が癒されてきたか。
「犬夜叉」
名を呼ばれる。ただそれだけで、心の奥が熱くなる。
おまえが、俺にくれたあたたかい感情。
「なんだ?」
「…えっ」
存外近くに聞こえた少年の声音に仰天し、小首を廻らせると、見知った顔がすぐ其処にあった。彼の漆黒の瞳に、目を見開き、驚いた顔をした自分が映る。
「かごめ?」
耳朶に犬夜叉の吐息が触れて、どきんと心臓が跳ね上がる。かごめは思わず、藤棚の幹へと後ずさりかけて、運悪くぬかるんだ地面に足元をとられる。あっと、声をあげ、どんと威勢良く幹へぶつかると、その振動で葉に溜まった雨粒の飛沫が、容赦なく、盛大に若い二人に降り注がれた。


ぽつっ。ぽつっ。

思いがけず冷たい水の洗礼を受け、少年と少女は水滴を滴らせながら、目をぱちくりさせる。お互い濡れそぼって、せっかく改めた衣が台無しだ。いや、それよりも、濡れた黒髪が頬に幾筋か張り付いて、常とは違う色気を醸し出していた。少女の頬を、つつっと流れる水滴を、少年は無意識に掌で払ってやる。
触れられた手の熱に、かごめはぴくっと身じろいだ。
互いに濡れそぼったまま立ちすくんで、言葉が出ない。

少年が視線を下に滑らせると、水に濡れてくっきりと露(あらわ)になった少女の身体の線と、水に透けて見える下着の色が視界に入った。
ごくりと唾を呑む。
かっと頬が熱を持って、朱に染まる。

対するかごめも、白の肌衣に透き通る、少年の肌の色に頬を染めていた。いつも手当ての時に見慣れたのとは、また別な感覚。言葉を出すのが酷くおっくうな、そんな何処か緊張感を孕んだ空気に、かごめもまた言葉が出てこない。

ただ、互いを見つめたまま。
まるで、時が止まったかのよう…。

頬にかかった髪を、彼の大きな手がそっと後ろへと梳いた。思いのほか、優しい手つきで梳かれた手は、首筋をそっと撫でると、肩先へと廻され、そのまま背なへと降りていこうとした時――

くしゅっ。

かごめが漏らしたくしゃみで、はた、とお互い我に返った。
濡れた衣服の若者が二人、夜の木陰で抱き合う寸前という己(おのれ)らの風体。まるで、逢引みてえじゃねえかよ、と自身らの姿を客観的に判じて、犬夜叉は火を噴きそうな程、顔を真っ赤にし、かごめから視線を逸らした。

…俺、今なにしようとしてた?

無自覚とはいえ、己の内なる心の衝動の事は、流石に心得ている。先程のほんの一瞬、戒めていた箍が外れそうになっていたのは、認めるのは癪だが、真実だった。

くしゅんっ。

二度目の少女のくしゃみに、ようやく少年は自分が取るべき行動を思い出す。少し腰を屈めると、ひょいとかごめの身体を横抱きに抱えあげた。「ひゃあっ!」と、耳元で驚いたような、少女の悲鳴が耳に入ったが、気にせずに抱き寄せると、腕の中の少女は、いきなりの不安定は状況に降り落とされては堪らないと、彼の首根っこに、ぎゅっと腕を伸ばして抱きついてくる。
少女の甘い馨(か)にくらり、と再び心が揺れそうになるのを抑えつつ、努めて抑揚の無い声音で、「風邪ひくからもう帰るぞ」と言い放ち、彼らは藤棚を後にした。

ひらり、と薄紫の花弁が一片。
彼らが立ち去った後に舞い散り、風に流れて暗闇に消えた。


その後、なぜかまた濡れて部屋に戻った二人を、からかう法師の声が聞こえたとか、聞こえないとか。(笑)






(終)





先日行ったアンケートでいろいろなシチュを提案していただいて、上記の3周年記念小説が生まれました。水、雨に濡れた二人、甘々、ほんわかとしたお話…など、いろんな言葉からイメージを繋げてみたのですが、いかがでしたでしょうか? あいかわらず纏まりのない文だったりするのですが、(そしてそのくせ、矢鱈前振りが長い…)喜んでいただけると嬉しいです。

最後に、アンケート参加してくださった皆様、ありがとうございました♪