すべてのはじまり




刹那の邂逅、それが全ての始まりだった。
瞬きほどの僅かな時を、突然その人は現れ、そして消えた。
僕と、僕の手の平に乗った生まれたばかりの悪魔の名を呼び、約束の言葉を口にして。

”ハウル、カルシファー。私はソフィー!
まってて、わたしきっと行くから!未来でまってて!!”

僕が何事かの言葉を返すよりもはやく、彼女は目の前の湿原から掻き消えた。
その存在が、まるで幻だとでもいうように、何の痕跡すら残さず。
少年は、自分の見たものが、現実の出来事だったのか、それとも夢幻だったのか。
ただ一瞬、見(まみ)えただけ彼女がさっきまで立っていた、川の向こう側をじいっと凝視しながら、生まれたばかりの火の悪魔に呼びかけた。

「………ねえ、カルシファー。」

その声音は、少年らしい澄んだ音。
けれど、年相応らしい抑揚はない。
あくまで静かなものだった。

「…なんだい。」

「今のは…僕の見間違い? 君にも見えたかい?」

もし幻なら、彼に見えるはずがない。
だが、そうでないなら。真実、其処に彼女がいたならば―――。

「見えたね。ただ、この時間軸にいる人間じゃなさそうだったけど…。」

過去か、未来かどちらかは判然としないが、此処とは異なる次元の存在だと、と火の悪魔は直感した。よく視える目を持つ悪魔ならではの、その性質ゆえに。

「…”待ってて”、って言ってた。僕の名前を…知ってた。」

唯一の肉親だった優しい叔父も既に儚くなって久しい。
彼の亡き後、もう誰も、この名を優しい声で、親しみを込めては呼んでは貰えないと、とっくに諦めていたのに。

「…おいらの名前もね。」

ぱちりと爆ぜる音を立てながら、カルシファーも小さく呟く。
契約したばかりの火の悪魔の名など、本来ならば誰一人として知り得るはずがない。契約を交わした本人でも無い限り、名を言い当てるなんて絶対に無理だ。はっきり言って万に一つもあるわけがない。しかし、通常であれば不可能なことを、さっきの彼女はしてのけた。己の目で見たというのでなければ、俄には到底信じられないことではあるけれど。それらから導かれる答えは、疑いようもない。
今にも泣き出しそうな表情で、
大粒の涙を目の淵に溜めて、
華奢な肢体を震わせて、
肩先まで伸びた星色の奇麗な銀髪を揺らしながら、
それでも必死に精いっぱいの想いを込めて。

”未来でまってて!”

ハウルは、さっき耳にした彼女の言葉を思い起こす。
きれいで、切なげで、優しくて、愛おしいと思える、その声。
だけど、僕には特別な何かを感じる”こころ”はもうない。
さっき、幸薄い星の子(カルシファー)の命を長らえるための代償として、自分の心臓を差し出してしまった。
可哀相だとおもったんだ。
自分と同じように寂しい存在だとおもった。
独りぼっちで他には誰もいない。

僕と、おんなじだね。

他の星の子たちはハウルが手を伸ばそうとすると、「構わないでくれ、死なせてくれ。」と、自(みずか)ら水面(すいめん)に墜落し、かしゃあん、と酷く澄んだ音をたてながら死んでいった。ゆらゆらと水面(みなも)に残像だけを残し、消え行く星の子。
けれど、彼は違った。

生きたい。
死にたくない。

自分の懐に堕ちて来て、死にたくない、といった彼を助けたいとおもった。
それがどんな結果を招き寄せることになるのか、愚かなことだが、その時、ハウルは何も考えていなかった。
だって、自分なんてどうでもよかったから。
少年を可愛がってくれた優しい叔父はもういない。
両親は顔すら知らない頃、この世を去ったと言う。
ハウルは孤独だった。
自分の世界の中で、ひどく優しくしあわせだった記憶は、すでに過ぎだった過去のものでしかない。なぜなら、ハウルを愛してくれる人はもう居ないのだから。
この世の何処にも。

さがしても、さがしても、見つからない。
さびしかった。
けれど、それを訴える相手はもういないのだ。
泣こうが喚こうが、死んだ人は戻らない。
叔父が遺してくれた水車小屋。
秘密の隠れ家。
其処で、長い休暇の時は一人で過ごした。
一人は嫌だけど、一人が良かった。
もし、誰か特別な人ができたって、いつか別れなければならないのなら、別れる苦しみを悲しみを味わうくらいなら、さびしくても最初から一人のほうがいい。
それなら、さびしくても、失う苦しみにびくびくと脅えないですむだろう?だから、叔父に縁のある水車小屋の草原を散策ていた少年が、偶然、堕ちて来た星の子を憐れんだとしても、ちっともおかしくはなかった。少なくとも、少年にとってはごく自然の事だった。
小さな命の灯が、目前で消えてしまう嫌だった。
それを阻むのに、自分の心臓が要るのだというのなら、別にかまわない。他の人間なら、なにを馬鹿なことを、正気の沙汰じゃない、とでも考えるかもしれないが、ハウルにとって、心臓を差し出すすなわち心をなくす、ということは、然程、重要ではなかったのだ。
だって、心なんてあるから、さびしいと感じるのだし、悲しいと感じるのだ。
なら、そんなもの要らない。
うれしいと感じることも、今の僕には縁遠い出来事。

だから、いいよ。
僕の心臓をあげよう。
それできみが死なずにすむのなら。
生きて。
死なないで。

そして、無謀な試みの結果、僕の中から心臓(心)はなくなった。
その証拠に、ほら。
もう、星の子たちが、かしゃあん、と堕ちて砕ける酷く澄んだ透明な音を聞いても、心が苛まれることはない。さっきまでは、その様を目にするだけで、酷く胸の奥が悲鳴をあげていたというのに。
だけど…。
静かに瞼を閉じる。
目裏(まなうら)で、彼女を思い出す。
奇麗な星色の髪のきみ。
震える声で、必死に僕とカルシファーの名を呼ぶ。
未来で待ってて、と薄紅の唇が動く。
ゆっくりとハウルは瞳を開いた。
硝子のように澄んだ碧色の目は、手の中の彼を映す。

「……待ってれば、逢えるのかな。」

眩い星色の髪をした彼女にもう一度、逢いたい、とおもった。
理由はわからない。
ただ、逢いたい。

「………たぶんな。」

「……いつまで?」

「そんなこと、おいらは知らないね!」

「…………………………………………………………ふうん。」

何やら突然考え込んだ少年に、彼の手の中の悪魔はどうしたんだ、という視線を投げかけるが、いったん集中したら周りが見えなくなる彼にはいっかな通じない。暫くはじっと様子を伺っていたカルシファーも、いつまでたってもぴくりともしない少年に、苛々してきたのか、自分の存在を思い出せといわんばかりに、今まさに彼の名を呼ぼうとしたその時。

「僕は待たない。」

「……は?」

長い長い思索のトンネルを潜って出たハウルの言葉に、一瞬、火の悪魔は言葉を失う。

「ただ待ってるなんて、無意味。時間の無駄。探しにいくよ、僕の方から。」

やけにきっぱりと言い切る様子に、すこし目を丸くしながらもカルシファーは思った事を口にする。

「いつ逢えるかなんて、わかんないんだぞ? 」

「そうだね。」

「一年後か、十年後か、もっと先かもしんないぞ?」

「そうかもね。でも、探すよ。」

「……ハウル」

「それに、僕だけじゃないだろう?」

「…?…??」

「君も会いたいだろう。」

にこり、と少年は年齢に相応しくない優雅な微笑みを浮かべた。

「だから、一緒に会いにいこう。”未来”に。」

僕と君の名を呼んだ、綺麗な銀色の髪の女性(ひと)に―――。


2005/03/01